自治体防災担当者による “現場からの提言”(第8回)

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自治体防災担当者による “現場からの提言”(第8回)

第8回目は、25年間の電算室勤務の経験をフルに活用され、総務部総務課に異動されて諫早市の防災行政無線の整備に取り組まれた長崎県諫早市 総務部 総務課 参事監 松藤 利典 氏にお話をうかがいました。

スペシャルインタビュー

行政と市民の気持ちがひとつになった防災対策。
最悪の事態のもとでも確実に情報伝達するため、万全を尽くしています。

諫早市 総務部 総務課

参事監 松藤 利典(まつふじ としのり)氏

-松藤さんの経歴を教えてください。

私は諫早市出身で、東京の大学を卒業しました。東京での就職も考えましたが、「少しでも地元に貢献できる仕事がしたい」と思い、公務員試験を受けたところ合格することができて、昭和57(1982)年4月に諫早市役所に入庁しました。
半年間の仮採用の後、配属されたのは電算(コンピューター)室でした。大学では文系だったのでコンピューターを見たことも触ったこともなく、そもそも役所に電算室という部署があることすら知りませんでした。そのときは、その後約25年間も異動がなく、電算室勤務が続くとは夢にも思っていませんでした。転属の多い役所職員としては非常に珍しいことだと思います。
配属当初は、役所内での電算室の役割もわからない状態でしたが、先輩方から、公務員の心構えや姿勢、電算室の仕事内容を徹底して叩き込まれ、徐々にコンピューターの知識やスキルが深まっていきました。当時はソフトメーカーにもパッケージソフトの発想がなく、プログラム開発は職員がすべて行っていました。システム設計も、要望のヒアリングから設計書や仕様書を作成し、プログラミング、デバック、リリースまでをしていました。私の電算室での約25年は、諫早市のコンピューターシステムの開発・保守・管理業務にすべてを捧げたといってもいいと思います。
電算室からの異動は平成23年3月に発生した東日本大震災が契機でした。諫早市は平成17年3月にそれまでの諫早市・多良見町・森山町・飯盛町・高来町・小長井町の1市5町が合併して新たに生まれました。合併前の旧5町にはアナログ式の防災行政無線が整備されていましたが、旧諫早市には防災行政無線はありませんでした。総務省からのアナログ式からデジタル式への防災行政無線の移行通達もあり、諫早市も導入されることになりました。そのときに目を付けられたのが私でした。デジタル式防災行政無線はコンピューターやネットワークに関するカタカナ用語も多く、想像するに電算室で長く勤務してきた経験から「コンピューターシステムなら松藤、カタカナ用語なら松藤に任せろ」ということで任命されたのではないでしょうか。
約25年の電算室勤務を解かれ、平成24年4月に総務課に異動となり、デジタル式防災行政無線システムの整備担当となりました。ですので、総務部に配属されて現在で5年目を迎えます。当時、無線は全くの素人で、防災についても真剣に考えたこともありませんでした。電算室での仕事が染みついていたため、電波法やARIBE規格など専門用語の理解から始め、次に仕様の確認、旧町のアナログ施設を視察し、ネットでさまざまな資料を調べ、知識を蓄えていきました。そして、紆余曲折はありましたが、平成27年3月に旧諫早市のデジタル式防災行政無線を整備、翌年の平成28年3月には旧5町の防災行政無線の整備を終え、現在は諫早市全域での運用、保守管理業務を行っています。

-電算室時代に得られた経験で、現在でも大切にされていることは?

「機械は必ず壊れる。だから常に保守運用を考えて準備する」という“フェイルセーフ 【 fail safe 】”の考え方です。機械は勝手に動かない。保守運用するのは人間なので、仮に故障や操作ミス、誤作動が起こった際に、なるべく迅速に安全な状態に復旧する、最悪の状態を回避できるように常に準備しておくことを心がけています。
電算室時代のメインフレームも、現在の防災行政無線も、「ちゃんと動いて当たり前、うまくいって当たり前」なのです。その当たり前を実現するためのシステム構築、保守管理の大切さは、電算室にいたからこそ培われた考えだと思います。
万一の障害時のリカバリーなどは、電算室経験者でないとわかりません。システムは導入して終わりではなく、常に正常に動作するよう日々準備し、チェックしていく。他の職員から見れば「毎日なぜ忙しくしているのか」と思うでしょうが、何かあってからでは遅いので、その場で解決できることは極力その場で解決するようにしています。

-防災行政無線の整備事業で一番苦労されたことは何ですか?

防災行政無線の整備は、旧諫早市にスピーカーを取り付ける検討から始めました。どこに何本のスピーカーを設置したらいいのか、まったく見当もつきませんでした。防災行政無線の整備は、設置するスピーカーの種類と場所を決めるのが仕事の6割、あとの4割が工事になります。スピーカーの設置交渉が大変な民間の土地を避け、官地への設置を大前提にしたので、設置場所を決めるのは本当に大変な作業でした。

昭和32(1957)年に本明川が氾濫し、670名ほどの方が亡くなった諫早大水害が起きました。最初は、「本明川沿いに防災行政無線のスピーカーを設置したら十分なのでは?」と考えていたのですが、詳しく勉強していくにつれて、「それでは足りない」ということになりました。また、東日本大震災のこともあったので、地震対策も検討した結果、旧諫早市全域を対象エリアとしました。

最初に、19基あるモーターサイレンを防災行政無線スピーカーに置き換えることを考えました。これがホーンアレイスピーカーに至るきっかけでした。モーターサイレンの到達距離を調べたところ、600、800、1,000mの3種類だったため、800~1,000mの距離をカバーできるスピーカーに更新するという短絡的な発想でした。その時初めて、普通のスピーカーの音達距離がそこまでないことを知りました。
街中に防災行政無線のスピーカーを設置する土地を確保するのは不可能なので、モーターサイレンに近い音達距離のスピーカーがないかを調査していくうちに、新聞報道やNHKの番組でホーンアレイスピーカーの存在を知りました。沖縄県宮古島市で実際に導入されていると知り、宮古島市に電話で状況を問い合わせてみたところ、「苦情が一切なくなり、非常にいい」とのことでした。
インターネットやTOAのWebサイトで技術的な裏付け情報などを確認し、理論上は「いける!」と確信が持てたので、諫早湾の干拓地で平成24年5月にデモを行うことにしました。実際のホーンアレイスピーカーの音を聞いて、「ホーンアレイスピーカーを中心に配置し、足りない部分を通常スピーカーで補う」という方針で事業の設計を進めることになりました。その後、遮蔽物の影響を受けにくい小学校、中学校の屋上にホーンアレイスピーカーを設置することとし、音達距離を地図上にコンパスを使って記入していきました。建物や山などの陰になる場所には、子局を整備することにしました。

最小限の整備から始めて、全部で106カ所に防災行政無線を整備しましたが、15カ所をホーンアレイスピーカー、残りをホーンスピーカーにしました。導入直後は、市民から「うるさい」と苦情が寄せられましたが、日を追うにつれて少なくなりました。現在では1件も騒音苦情はありません。逆に「聞こえない」という声が寄せられます。設置目的が防災用途なので、聞こえない方が状況的にまずいわけで、追加設置の事業を行いました。
平成27年度に21カ所の追加整備、平成28年度に1カ所の置き換え整備を行い、現在は旧町のデジタル化整備にあたっており、老朽化したアナログ設備173本をデジタルの子局に変更しています。

今回の同報系防災行政無線の更新にともない、以前各家庭に配布していた個別受信機を撤廃し、音声案内は屋外スピーカーだけで行うことにしています。ようやく、旧町も含めてデジタルの子局が整ったので、微調整を行いながら市内一斉にデジタル式防災行政無線の運用を始めています。

  • 諫早市役所の屋上に設置された防災行政無線システムの屋外拡声装置(長距離型スピーカー)。屋上の4角より市街地に向けて放送される。
-防災対策で松藤さんがもっとも重要だと思われることは?

役所にとって防災上重要な役割の一つは、気象状況や自然災害、航空災害などの正確な情報収集です。それには理論的・技術的な裏付けと数値データを情報収集する能力と仕組み、それを分析する能力と仕組みが必要です。組織として動くので、組織で平等に情報を共有し、同じ危機感を同じレベルで持つことが重要です。
諫早市の防災会議室では、警戒レベル以上になると市長、副市長を含む全部長が集まり、リエゾンと呼ばれる部の連絡員が控えます。会議室の4つのモニターにさまざまな情報を集約して表示させ、それを全員で見て、正確な情報共有をもとに全部長で意思決定を行います。それを現場部隊に指示し、無線室から防災行政無線やメールなど、さまざまな手段で市民に向けて同報配信を行うようにしています。

役所が担う役割の二つ目が、タイムリーかつスピーディで正確な情報発信です。これも「フェイルセーフ」の考え方ですが、一つの媒体に頼らずできる限り多くの手段を使って情報発信できる仕組みづくりを行い、同報できるシステムを構築しています。災害時には市民からの電話が殺到し、対応に追われます。個々の情報をバラバラに流すのではなく、情報を集約して発信する必要があるため、防災行政無線の導入と同時に「情報統制システム」を構築しました。これにより、全ての媒体に同じ原稿の情報を一元管理して発信できます。
災害時は人手がないため、1〜2名の職員が全体を俯瞰し、情報を冷静に整理・分析、判断して情報発信する必要があります。諫早市では私ともう1人の職員がその専任担当になっており、避難所対策などの他の業務を割り当てられることはありません。
以前は、防災対策は経験と知識が必要だと考えられていました。もちろん現在でも知識や経験があるに越したことはありませんが、今後は経験がなくても運用できる仕組みやシステムの整備が重要だと考えています。

-防災行政無線システムの整備後も「市民に伝わる情報提供」を工夫されているとか。具体的にはどのようなことをされているのですか?

いくら音達距離のあるスピーカーを設置しても、市民にきちんと放送内容まで理解されないと意味がありません。ですから、音質にも、放送する言葉の選び方にも極力こだわります。市民が聞いた時に聞き取りやすい言葉、理解しやすい言葉を用いるようにしています。市民第一、当たり前品質ですね。いざという時に当たり前に動いて、情報がしっかり伝わる、市民に役立つ防災行政無線でありたいと思っています。

具体的な取り組みの一つが、音声合成の導入です。人間の肉声による放送よりも音声合成の方がノイズも少なく、以前と比べても不自然さのない聞きやすいものになってきました。今回バージョンアップ版がリリースされたので、より正確で聞きやすく、伝わりやすい音声になればと思っています。迅速に伝わり、理解され、行動につながるよう、職員にもメーカーにも厳しい要求を出しています。スピーカーを通して聞くと、自然に伝わる音質を採用しています。
さらに、言葉の明瞭性やエコーの問題もあるので、言葉の選び方にも配慮しています。いくら良い音質でも、市民の皆さんに理解してもらわなければ意味がありません。行政放送の内容については市民に伝わらないと判断したら、他部署の原稿でも必ず手直しを行い、放送するようにしています。

また、防災行政無線の内容が「聞こえない」ことが一番の問題ですので、災害弱者の方には、メールやSNS、そして今回新たに構築した防災アプリも利用して災害情報が確実に市民に届くように取り組みを行っています。
防災アプリは現在、仮運用中ですが、諫早市における災害発生時に市の災害対策本部宛に救援要請を出したり、避難所や避難者の情報をリアルタイムで収集・管理し災害避難者を支援することを目的に開発しました。これにより、避難所以外で自主的に避難している市民からも情報伝達ができるほか、SOSボタンを押すことで位置情報が災害対策本部に届きます。さらに、電話番号を入力すれば災害対策本部からの連絡も可能になります。関係機関と連携して、避難所や避難者をサポートできる仕組みを構築しました。
被災者や守るべき市民の皆さんが何を求めているか、役所として何ができるのかを、今後も考えていきたいと思いますし、このような活動を地道に防災Facebookなどで紹介することにより、市民に定着するよう日々努力しています。

-松藤さんのモチベーションは?

「市民をいかに救うか。」それが私のモチベーションになっています。絶対に人災を出さないという意気込みで日々業務を行っています。
電算室時代に叩き込まれたのが、「何十億円もの予算をかけたシステムも、全て血税で賄われている」ということ。今回も膨大な費用をかけて同報系防災行政無線を整備しましたが、それをいかに有効に使えるように維持管理していくかが仕事です。そうでないと役所で特殊な仕事をしている私の存在意義はないと思っています。約25年間電算室にいて、縁の下の力持ちとして役所や市民との接点を裏で支えてきた経験や考え方が、私にとって仕事のあり方のベースであり、理想になっています。

-全国の防災担当者の方にエールをお願いします。

技術は日進月歩しており、市民とのコミュニケーション手段や情報収集や活用の方法も進化していくため、状況に応じた対応が重要です。情報を必要とする市民の方々の目線で情報発信を検討し、対応すれば、市民に役立つ良いシステムであり続けられると思います。
どの自治体も、情報の「収集」「共有」「一元化」が課題ですが、「同じ危機感をどれだけ共有できるか」という意識は、防災関係者だけでなく全ての公務員が持つべきです。危機意識や危機感の共有は非常に重要です。それなくしては、どんな災害でも後手後手に回ってしまうでしょう。

また、公務員である以上、人事異動は必ずあります。後に仕組みやシステムが残されるわけですが、後任の方に、その仕組み、システムの目的や役割までをしっかりと伝えることが大切です。そこまで理解をして仕組みの管理と運用をするべきで、その意思を持つ人材育成をしっかりと引き継いでいく必要があると考えます。

諫早市の概要と想定される自然災害

長崎県諫早市の概要

諫早市は長崎県中央部に位置し、東は有明海、西は大村湾、南は橘湾と三方が海に面し、北は多良岳の秀峰を仰ぎ、4本の国道とJR、島原鉄道が交わる交通の要衝である。市の中央部を流れる本明川は、市街地を通って有明海に注ぎ、下流の諫早平野は県下最大の穀倉地を形成している。長崎市、佐世保市に次いで長崎県で第3位、九州では第12位の人口を有する都市である。

昭和15(1940)年9月1日に北高来郡諫早町・小栗村・小野村・有喜村・真津山村・本野村・長田村が合併し、人口4万の諫早市が市制施行された。平成17年3月1日には西彼杵郡多良見町、北高来郡森山町、同郡飯盛町、同郡高来町及び同郡小長井町と合併し、新しい諫早市が誕生。これにより、人口14万人都市となった(2017年3月時点の総人口は13万7千人余り)。

東部は古くから行われている干拓によって県下最大の穀倉地帯が広がり、豊かな自然に恵まれている。西部は新興住宅地、工業団地が数多く立地している。市の製造品出荷額は県内1位を誇り、農業、工業の2面性を持った都市である。

古くから大雨や台風などによる水害、洪水、土砂災害に見舞われる。
熊本地震以降は、地震への備えも想定。

長崎県は、常に台風の影響や被害を受けてきたが、諫早市も同様の宿命に置かれている。干拓によってできた平野は、水面よりも低位置にあるため高潮、津波を警戒しなければならず、一方、北に多良岳をもつ集落は小河川の氾濫と山津波を恐れなければならなかった。

元禄12(1699)年の本明川の洪水では溺死者487人を出し、人家田畑に大きな被害を与えた。
享保5(1720)年夏の台風被害では、倒壊人家277戸、屋根を吹き飛ばされたのも1,565戸、倒木300本という被害を受け、同17年(1732)にも大被害を受けたという記録が残っている。
その後、文化年間に3度の洪水、明治末年、大正初年にも豪雨に襲われ、昭和に至っては、定期便のように台風に見舞われた。その都度200mm~300mm近くの豪雨も少なくない。

昭和32(1957)年7月25日には諫早大水害が発生。昭和32年の年間雨量は、市内中央平たん部で1,800mm。この半分にあたる900mmの雨が7月25日を中心に、24時間内に降ったのである。多良岳は各所で山崩れを起こし、支えきれない雨量が大小の河川に溢れ、本明川になだれ込み、未曾有の大氾濫を引き起こした。一昼夜で、死者576人、行方不明者54人、重軽傷者1,547人を出した。人家、公共建物の被害を始め、農地、山林、道路、橋梁等の被害総額は98億1,134万円と計上されている。

さらに近年においても、昭和57(1982)年の長崎大水害、平成3年の台風19号、平成11年の集中豪雨など、数多くの被害(床下・床上浸水、土石流や土砂災害など)に見舞われており、自然災害常襲地帯ともいえる地理的、地形的要因があると考えられている。

この他、昨年発生した熊本地震では、諫早市内でも最大で震度5弱を記録しており、今後は地震についても想定される災害として認識されている。

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